文 : 鈴木淳史
Thu.24.Jan.2013
薮下編集長の「徒然ウィード」でも取り上げられていた、水道橋博士の「藝人春秋」。前々から、いじめについて書きたいなとは思っていたのだが、「爆笑”いじめ”問題」という章を読んで、本格的に書こうと決心ができた。
まずは、僕の原体験から。時計の針を1985年まで戻そう。場所は、芦屋市立山手小学校の廊下。小学2年生の僕は、同じクラスのH君とH君のお母さん、担任のK先生、そして隣クラスのU君が話しているのを、ただ何となく眺めていた。どうやら、話はこうだ。U君は、新しいボードゲームを買ったH君に、「それを学校に持ってこいや!」とひたすらけしかけた。多分オチも何にも無い単なる難癖にどうしようもなくなったH君はお母さんに相談して、ブチキレたお母さんは「ほら、持ってきたやないの!」と半泣きのH君を横に吠えている。事実確認で困惑するK先生。約28年前だが未だに、その時のU君のふてぶてしいひとことを異様に憶えている。
「ジョークやんか!」
何なら彼は不敵な笑みすら浮かびながら、言い放った。小学2年生で、何故あんなに余裕があったのか。大体、いじめっ子なんつうのは保護者が来たらビビルものだ、その後の経験も含めていうと。とにかくU君は、その一点張りだった。どれだけH君がいじめられたと思っていても、当の本人は認めない。この認識の違い…、これこそが”いじめ”だ。
そして、もう少し時計の針を進めよう、1991年まで。場所は芦屋市立山手中学校の職員室。今度は中学2年生の僕が当事者、そして小学校からの一緒の同級生S君、これまたK先生(小学校のK先生とは違う人物)。話はこうだ、小学校の時、仲良かったはずのS君は中学2年で同じクラスになった途端、突然、僕をいじめ始めた。理由は、何だっただろうか。今だから推測できるが、彼は中学生になったし悪ぶりたかったのだろう。ところが、小学校から家族ぐるみで全てを知っている僕が邪魔になったのだ。つまり、過去の自分を深く知っている物を消去したかった。周りの者も巻き込み、いじめはエスカレートした。この中学自体、いじめが盛んに行なわれ、登校拒否になる子もいた程。事態を重く見たK先生は僕の訴えもあり、三者面談に。小学生時代のU君のような本当の悪でないS君、心優しい部分もある彼だが、何とかつっぱねたかったのだろう。何故、ぼくをいじめるのかをK先生に追及されたS君の苦し紛れの名言が飛び出た。
「生理的にとしか言い様ないわ! 先生も、わかるやろ、そういう感覚!?」
まぁ、それはそれはK先生が真っ直ぐな人だったので、S君はこっぴどく叱られていたが、当の僕はひとり納得していた。「うまいこと言うなぁ~。生理的って言われたら、しゃあないわ。人それぞれ、生理的な好き嫌いあるもんなぁ~」てな具合だったように思う。ひとり心の中で納得しながら、後はぼんやり”激高K先生”と”つっぱりS君”を眺めていた。
という事で、時計の針をようやく現在に戻そう。要は、いじめなんて、”ジョーク”であり”生理的”なものなのである。つまり、いじめっ子と呼ばれる人たちは、何も深く考えられていない。残念だが、そんなものである。
ここでひとつだけ言える事は、僕がどんなにいじめられても登校拒否、そして、それ以上の事にならず、何だかんだ、へらへらと生きてこれたのは、まさしくカルチャーのおかげだ。小さな頃から当たり前のように読んでいた本、そして、プロレスやウルトラクイズ、お笑いと、その時々で没頭していたカルチャーがあったから、嫌な事があっても、そっちの世界が僕を和ませてくれていた。そして、今から思うに、プロレスもクイズもお笑いも何かしら人間同士が対峙しあって成り立つ関係だし、何らかの摩擦が人間関係で生まれのは仕方ないくらいに楽観的に考えられていたように思う。「爆笑”いじめ”問題」の中で、こんな博士の言葉が出てくる。
「学校のいじめは個性を消すが、お笑いのいじりは個性を生かす!」
“いじめ”を”いじり”と自分の中ですり替える事で、僕は高校までも続く軽いいじめを明るく耐えられたのかもしれない。ただ、問題なのは”いじり”というのは関係性が成り立つ中で生まれる高度な人間関係の技である事を忘れてはならない。ダウンタウンの浜田さんが若手時代、大御所たちにツッコミを入れる事を、失礼無礼と勘違いする人もいたという。ただ、浜田さんは本番前と本番後の丁寧な楽屋挨拶を踏まえた上での行為であったし、相手がキレたり、落ち込んでいたりすると、それを学習して、日々気を付けていったという。いじめっ子側が”いじり”と思っていても、相手が”いじめ”と思えば、終わりである。好きな上司から「今日、デート!?」と言われたら、「やだぁ~!」と明るく笑いながら返せるだろう。でも、嫌いな上司から「今日、デート!?」と言われたら、「やだぁ~!!」という悲鳴で即刻セクハラ…、つまりハラスメント(=嫌がらせ)となる。そんなものである。
さて、「爆笑”いじめ”問題」の最後は、伊集院光氏とピエール瀧氏のラジオでのやり取りで終わる。ちょうど時計の針を一瞬だけ戻す2006年、学校でのいじめによる自殺が問題になった時期だ。僕も、このやり取りは知っていて共感したし、そして救われた対話だった。
「お前ら将来伸びるから、今、死んじゃダメ!」と爆笑しながら言い放つ瀧氏に、伊集院氏が「ホントに青臭いことじゃなくて、その一瞬、お前ら敵に囲まれたと思うけど、その外側にもっと凄い色んなことあるから!」と爆笑で返す。
「お前ら、びっくりするだろうけど、今、お前の周りにいる30人全員敵だろ? だけど、その周りに300人いて、その周りの3000人が全員敵になる瞬間があって、3000人が急に味方するときがあるから。その一層(30人)だけで判断するなよ…」と伊集院氏は再び話し、最後、瀧氏は「判断するなってことを言いたいオレは!」と〆る。
経験者のふたりだからこそ、言葉に魂がこもっている。だって、僕自身もそうだ。体育の授業でバレーボールをひたすらぶつけられていた僕が(笑)、今や情報誌からカルチャー誌で自分に多大な影響を与えたミュージシャンや芸人の方々と直接話を交わし、それを誌面やWEBで多くの人に伝えている。そんな事ができるのも多くの理解者に社会で出逢えて、皆様に支えてもらい、おもしろがってもらい、叱咤激励してもらってるからこそ。本当に心から言える、生きていてよかった…。
とにかく最後に言おう。思い遣りや心遣いなく、自分だけのペース配分で荒々しく投げた言葉や力は相手を傷つけるだけの暴力だ。それは決して”いじり”ではない、”いじめ”だ。もちろん甘やかすだけじゃ関係性が生まれないのもわかっているが、思い遣りや心遣いといった配分は大切だ。自分自身もそうだが、相手に何かきつく当たらないといけない時こそ、細心の注意を払い、相手が心の受身を取れるようにしてあげたい。そこには、子供も大人も関係ない。
水道橋博士 「藝人春秋」