文 : 鈴木玲子
Thu.17.Jan.2013
本日1月17日で、あの阪神淡路大震災から18年になります。我が家は全壊。下敷きになりながらも胸の骨一本折っただけで、しぶとく生き残った私。揺れがおさまった後、もう一度寝なおそうとした我が愚息。崩れ落ちた壁土の中から、笑顔でムックリ起き上がって来た我が老母。不死身の一族でした。
この震災で多くの物を失いました。バイオリンにフルート、三味線にギター、折にふれて、ちょっとさわってみると心が和んだ楽器たちでした。愚息と云えば、それまでに観た映画のパンフレット全て、キン肉マン全巻、及びケシゴム、フィギュア、そしてCD、本や雑誌全て無くしました。口には出さねど、目に涙状態だったでしょう。老母は、それまでに書き溜めた短歌、句集アララギの全て。それぞれの大切な物でした。
しかし、それより、もっと大きな痛手は「物」ではない、手にとれない物への「喪失感」でした。全壊した家で過ごした日々。畳の上に柿の葉を通して差し込んできた青い日差し。そんな何でもない物が懐かしく愛おしく想われるのです。松葉を集めての焼いもの煙。梅の花の冷たい香り。お正月、重箱の飾りになった南天の赤い実。18年前の猫の額程の庭が浮かんできます。こんな事を思い出して、ノスタルジーに浸ってられるのも、生きのび、復興したからこそなのです。
阪神淡路大震災には津波もなければ、放射能の心配もありませんでした。それでも、恐怖と焦燥感は凄いものでした。今回、被災された方々の思いは如何ばかりでしょうか。そうそう、私も仮設住宅にしばらくの間、暮らしていました。ビジネスホテルより、まだまだ小さなトイレにバス。冬は凍える程寒く、夏はゆであがる程暑かった部屋。その部屋にひとりでいると、沈み込んでいく様な絶望感に襲われていたものでした。当時、人に言われて一番腹立たしかった言葉、それは「頑張れ!」でした。「必死に気持ちを奮い立たせて、懸命に頑張っているのに、これ以上、どう頑張れというの!」と悔しかったものでした。
東日本大震災の被災者の皆さんは、もう2回もお正月を過ごしておられます。頑張らないといけないのは、被害を受けなかった私達なのです。あの3月11日、大阪でも、かなりの「ゆれ」でした。瞬時に、あの時の恐怖がよみがえりました。テレビに映る観たこともない凄まじい勢いの津波。この恐怖は、私達に想像も出来ませんでした。
丁度、1年前、十三ファンダンゴのそばの第七藝術劇場(http://www.nanagei.com/)で、1本の映画を観ました。「トーキョードリフター」(http://tokyo-drifter.com/news/)、松江哲明監督、前野健太君主演。震災直後の東京をヒステリックにならず、平熱で淡々と撮った映画でした。上映後、おふたりのトークがあったのですが、その中で忘れられない監督の言葉がありました。
被災地でカメラの三脚を置いた時、「その下に遺体があるのですが…」と言われたそうです。私も同じ経験がありました。まさしく、デジャヴュでした。阪神淡路大震災の後、車で神戸方面を走っていた時、あの長田付近にさしかかりました。ひどい渋滞で、車は進みません。窓の外には、火事で鉄骨だけになった建物が並んでいます。そこに大きなゴミ袋がいくつも転がっていました。そこにひとつの立札。
「この下には、まだ遺体があります。ゴミを捨てないで下さい」
地震後、初めて泣きました。18年も前の事なのに、いまだに鮮明に目に浮かびます。