文 : 鈴木玲子
Mon.13.May.2013
日本語好きの私には、最近、気になっている事がある。それは、日本語が余りにも耳障りが良くなり過ぎている事。聴き手の神経をいたわっているのか、意味の「おぼめかし」が多い。
例えば、そう「プチ整形」。「整形」に後ろめたさや羞恥心があるのか。そこに「プチ」をつける。これで、ソフトにしているつもりらしい。語源であるフランス語の「プチ」もいい迷惑。しかし、言葉は生き物。だから、世の中の「プチ付け」がオールライトであれば、私も慣れるしかない。でも、実のところ未だに「真逆」は「正反対」でなければ、気持ちが悪いし、「援助交際」など、もってのほか。気味が悪い。言葉の変化のスピードについていけないなら、これはもう私流に遊ぶしかない。
プチ整形::他人は気付いていても、本人はそれに気付かないフリが出来る程度の情けない整形。
プチ万引き::知らないうちに勝手にポケットに入ってしまったと弁解が出来る程度の緩い万引き。
プチ汚職::偉い人は捕まらず、下っ端だけが捕まる程度の本当に汚れた汚職。
プチストーカー::すぐ別の人に乗り換える程度の全くストーキングをしていないストーカー。
プチバンド::自分たちだけで満足しきっている程度のどうしようもないバンド。
こんな事をして憂さ晴らしをしている私は、さだめし、こんなところですかね。
プチガンコ::自分では、かなりの順応性があると勘違いをしている程度のガンコな人。ちなみに、団塊の世代に多くみられる。
余りにもソフト化した日本語を使い慣れてしまうと、自分自身の意志、意見までが曖昧になってしまうのではと危惧している。明確に自分の意志を伝え、同時に相手を傷つけない言葉選び。長年、日本語を使っているが、未だに研修中である。