文 : 鈴木玲子
Wed.27.Feb.2013
昔々、ある所に…、ある所とは大阪ですが。1970年3月15日、大阪万博は開催されました。あの年は今年同様、雪の多い年でした。オープン2、3日前の事、私達コンパニオンは会場見学をしていました。先進国館、日本企業館は準備万端整って、完璧に堂々とそびえていました。
この日も雪、しかも前日から降った雪が積もっていました。そんな中、冷たい地面に座りこんで何か作業をしている人がいます。漆黒の肌、彫りの深い美しい顔立ち。この寒空に着ているものといえば、コート無しの薄い民族衣装。エチオピアの人でした。ひたすら竹を細く長く裂き、組み合わせてドームの様なものを作っているようです。上から布でも張って、パビリオンの一部になるのでしょう。オープンが目前に迫っているというのに、まだ完成していないのです。口をギュッと結び、思い定めた眼差しで、この雪に耐えているのは、母国への誇りなのでしょう。万博から4年後、エチオピアでは革命が起こり、帝政が廃されました。その時、私はこのふたりのエチオピア青年を思い出していました。
華やかな万博とはいえ、陽のあたらない弱小国、みんな似たような状況でした。東南アジアの国々、ベトナムは既に南北で戦争をしていましたし、カンボジア、ラオスは会期中に革命が起こり、派遣されて来ていた政府代表や館長の交代があったりと気の毒な状態でした。
弱小パビリオンのコンパニオンは、大国館コンパニオンと違って、すべき仕事がたくさんありました。日本企業館を研修期間に辞め、カンボジア館に属していた私も、そのひとりです。経済的な理由で、コンパニオンが秘書的な仕事も通訳も広報、儀典も全てカバーするのです。大変ではありますが、特典もあります。例えば、「月の石」で大人気なアメリカ館。そんな超難関パビリオンにも、電話一本で入れてあげる事ができるのです。「我が館のVIPです。宜しくお願い致します」…、相手国の儀典課は特別入り口で出迎え、丁寧に案内までしてくれるのです。職権乱用ですが、母校のシスターなど色んな人に感謝されました。「牛後より鶏頭」は、中々良いものです。ソ連館、フランス館、どこでもOKでした。
会期中、あのエチオピア館も訪ねました。竹組みのテントの中で、特産品のコーヒーが販売されていて、特別おいしく感じられました。その後、カンボジア館の政府高官達は命からがらポルポト大虐殺からパリや日本に逃げたりと悲惨な状況になりました。当時の政府副代表が作った「アンコール・ワット」の模型は万博民族博物館にまだ展示されているはずです。複雑な気持ちになります。
若者にとっては、何か特別な意味があるらしい「太陽の塔」。私にとっては、高度成長に舞い上がった日本の「バベルの塔」に思えるのです。