文 : 鈴木淳史
Fri.19.Apr.2013
トモフスキーさんの「ほめてよ」(1stフルアルバム「NEGACHOV & POSICOV」収録曲/1996年3月発表)という曲が大好きだ。
「ほめられないとやる気出ない」や「誰かほめてよ 僕の事を 誰よりも」などとストレートに歌うユーモラスな内容。誰よりも怒られる事が大嫌いで、ほめられる事が大好きな僕にとって、学生時代から自分のテーマソングのように聴いていた。久しぶりに歌詞を読み直していたら、ドキッとする箇所が…。
「僕に注文があるならニュアンスに気を使ってよ 忠告のところどころにおほめの言葉を入れてよ」
「正しくたって批判なら それはマチガイ」
ちょうど最近、僕自身が『叱り方と叱られ方』について考える機会が多かったので、余計に響いた。自分の母親が僕の知り合いを叱っている場面を目の当たりにした体験も大きかった。とにかく誰かを叱るのも、誰かに叱られるのも、心身共に疲弊する作業である。見過ごしたり、知らないふりをするのが、一番楽なわけだから。
連載第10回目「いじめといじり」の最後にも書いたのだが、思い遣りや心遣いなく、自分だけの勝手なペース配分で荒々しく投げた言葉や力は相手を傷つけるだけの暴力だ。相手に何かきつく当たらないといけない時こそ、細心の注意を払い、相手が心の受身を取れるようにしてあげたい。本当に、そう想う。そこに愛情がないと、何も意味がなくなる。
連載第11回「ままぼく」にも記しているが、僕にとって母親は幼い時から怖い存在だった。誰よりも、母親に怒られるのが一番怖い。先述した母親が僕の知り合いを叱った話だが、それこそ幼い時以来久しぶりに見る僕以外の誰かを叱る姿に…、怖くて震え上がってしまった。そして絶対、批判的な忠告にならぬようにニュアンスに気を使い、ほめながら叱る…。その思い遣りと心遣いの深い愛に、横で見ていて思わず涙腺が緩んでしまった。怖すぎての涙という説もあるが…と冗談は置いといて、叱る事の大切さと落とし前をつける事の大切さ、そして、そこに愛があれば単なる暴力にならない事を改めて勉強させられた。そんな想いが伝わったのか、叱られた知り合いも目に涙を浮かべていたように想う。遺恨も無く、両者納得の握手を交わした姿は清清しく潔かった。
陳腐な言葉だが、やはり「母は偉大だ」…。背中を見て子は育つ…、いや育たなければならない。僕自身、他人を叱る事が得意ではなく、常に苦心をしていた。それだけに今回、母親の姿を見て、叱る事の重要さを再度確認できた。叱る事は、悪い事ではないのだ。
最後に、トモフスキーさんが「ほめてよ」について書いたライナーノーツで〆たい。
「人の弱味にぴぴっと触れるような忠告、痛いところをついてくるような批評は、ちっともためにならない、少なくとも僕には。
そんなものが僕のヤル気につながるなんて考えは、感違いも甚だしい。
『叱咤激励』という言葉があるが、『叱咤』はいらないから『激励』だけ、僕にください」
そうそう、やっぱり「ほ~め~て~よ~!」…。
おあとがよろしくないようで。