文 : 鈴木玲子
Fri.12.Apr.2013
私には離島に暮らす親戚がいる。ふたりもいるもんだから、ちょっと珍しいと自慢している。ひとりは八丈島、もうひとりはもっと南の父島。それぞれ家族を持ち、すでに20年暮らしている。二島共に東京都ではあるが、八丈島は300km、父島は1000kmも離れた距離にある。八丈島は未だに訪れていないのだが、父島は5年ほど前に機会を得て訪れた。空港がある八丈島と違い、直行便でも東京から週に1本しか船が出ておらず、到着まで25時間もかかる。私は他の島なども巡る6日間の船旅の中で、2日間ほど滞在した。
父島に暮らすのは姪で、もう40を幾つか超えている。きっかけは大学生時代の旅行であり、それから移住してしまった。元来が陽気で怖いもの知らずな野生児ゆえ、それも有りかなと妙な納得はしたものの、そこで知り合った青年と結婚の話が出た時は、さすがに驚いた。我が姉、つまり彼女の母親が逆立ちせんばかりに反対しようとお構い無しに、さっさと結婚してしまった。自作のウェディングドレスに真っ白で大きなアマリリスを抱えて。勿論、私たち親族は誰ひとり出席しなかった。そんな事を意にも介さず、子供もふたり持ち、船舶一級免許も取得し、その上アルバイトまでしながら、旦那様と仲良く観光業も営んでいる。まぁ、大した女傑なのだ。そして、父島関連のテレビ番組では必ず画面の端に姿をみせる。
さて5年前の父島訪問は、彼女の母親ではない方の姉夫妻の計らいで、3人で向かった。岸壁で待ち構えている筈の姪は半時間も遅れ、子供ふたりと走ってやってきた。「アルバイトが長引いたの…」と言いつつ、私に抱きつき、泣き出した。彼女を抱きしめながらも、私は戸惑った。ニコニコ顔で出迎えてくれるものとばかり思っていたのだ。旦那様の親族は何度も島を訪れていると聞いてはいたが、その事で姪が何らかの想いを持っていたとは考えてもいなかった。愛おしさが募り、不びんで胸がつまった。子供たちは完全無敵と思っていた母親が泣くのを不安げに見つめている。ひと段落すると涙を拭いて「あはは!」と笑う、私たちのよく知る姪に戻った。子供たちも、一安心したであろう。
こうして、父島観光は始まった。まずは港のそばの水族館、観光協会、そして教会にラーメン屋、たった一軒しかないスーパー…、大体どこに行っても同じ船に乗っていたあのさかな君と遭遇。子供たちは、サインを貰って大満足していた。小さな島なので島民全員と姪は知り合いで、会う人会う人が手を振って、笑顔で挨拶をしてくれる。村会議員に立候補でもすれば、当選は間違いないだろう。それくらいの顔の広さであった。
父島は中央部が山で、その周りを海が囲っている。その間の狭い平地で、みんなは生活をしている。ちゃんと東京都営のアパートがあるのだが、とてもこじんまりとしていて可愛らしい。当たり前のようにバナナの木も生えている。ハイビスカスにパッションフルーツも、何も珍しくない。子供たちの遊び場は、そこいらのあらゆる所であり、山の中にある大きなタコの木にはロープが通され、ブランコがこしらえられている。大きく揺れるブランコ、60年前の私たちの子供時代さながら。子供たちに親切にも誘って貰ったが、年齢を考えて丁重にお断りをした。
出発前に愚息に必ず見てくるようにと言われた場所がある。濱江丸沈没の海だ。崖の上から見下ろすと、青く透明な海の中で黒々と揺らめいている…。この民間の貨物船は軍に徴用され、米軍の魚雷攻撃で沈没して、そのまま放置されているのだ。父島には砲台や塹壕も残っていて、第二次世界大戦の痕跡が数多く見られる。「戦争を知らない子供たち」世代としては、やはり、しっかりと記憶しておきたい。
国内とはいえ、やはり別れはセンチメンタルなもの。二見桟橋で姪たちに「さよなら」と手を振り、沖合いに停泊している船を目指して、はしけ替わりの漁船で出発する。「さよなら」に気を取られ、お土産を渡し忘れた姪は既に泣きながら、その紙袋を振り回している。しかし、そこはさすが我が姪っ子。漁船に頼み込み、沖合いの船まで子供たちを引き連れ届けにやってきた。汽笛と共に、私たちの乗った船が動き始めると、その右舷にも左舷にも父島島民の船が幾つも併走して見送ってくれる。さかな君も満面の笑顔で大きく手を振って、見送りに応えている。
一番最後まで追いかけてきたのは、やはり姪っ子家族の船であった。「油がもったいないから、戻りなさ~い!」という私の声が聞こえたのか、ようやく姪っ子家族の船は停まった。それでも必死に「玲子おばさ~ん!」と叫び続ける子供たち…、その横で姪がタオルで涙を拭いている。そして、徐々に姿も声も小さく消えていった…。こうして、私たちの3日間に及ぶ父島滞在は終了した。